リモートワーク普及による人材流動化とHR techスタートアップの隆盛
2020年からのCOVID-19による世界的なパンデミックは、雇用や働き方に大きな変革を与えました。今や一般的となったリモートワークや在宅勤務と出社勤務のハイブリッドワークなど、いわゆる“Working From Anywhere”の環境整備が進められた結果、世界の人材の流動性は上昇しています。Microsoftの調査※1では、この環境整備と働き方の変化に伴い人々が労働環境に求める要素のプライオリティが変化したことで、2021年には全体の18%が退職し、43%が今後1年間のうちに転職する可能性が高いと回答しているようです。アメリカでは企業は州や地域を超え世界中の採用候補者を選別できるようになった一方、これまで以上に現在の従業員をいかに維持するかを考える必要にも迫られています。
HRに関するこうした状況の変化は、HR techを主戦場とするスタートアップ企業に急拡大の機会を与えました。例えば、AIを活用した客観的なフィルタリングによる初期候補者選定は候補者の絶対数が増加した人材採用の業務量削減に、従業員のスキル可視化やそれに基づいたスキル開発・オープンポジションの提案は従業員の離職・転職を踏みとどまらせることに貢献しています。また、HR techサービスへの需要の高まりとともに個人・機関投資家による当領域への資金流入も次第に増加していき、2020年には34億ドルだったHR techへの投資総額は、2021年に123億ドルまで膨れ上がることとなりました※2。同記事では、2022年にはVCからの資金調達が業界問わず調達額・調達企業数ともに顕著に減少傾向にあるにもかかわらず、HR techへの資金流入は増加していることが報告されています。
本稿では、現在世界で急拡大を続けるHR techの市場において、“DEI&B”という新しい概念とこれを実現するAIを搭載したサービスに着目します。
D&Iだけでは足りない?DEI&Bという新たな概念
日本でもD&I(Diversity=多様性、Inclusion=一体性)という概念が近年重視され始めましたが、アメリカなどではこの2つにEquity(公平性)とBelonging(帰属意識)の2つの考えを加えたDEI&Bという概念が取り上げられています。Equityは人種や性別、宗教などの先天的な出自による昇進・昇給へのビハインドの撤廃を、Belongingは従業員個人が組織内で理解され、自身の居場所があるという自認を持てる環境作りをそれぞれ目指す概念です。つまりDEI&Bを日本語に訳すと、組織には「様々な出自、思想の人が」「孤立せず周囲と助け合って」「差別されずに公平な評価を受けながら」「自身が受け入れられ、理解されている」ということが求められるのです。
この考え方は日本のHCM(人的資本管理)でも重視されるべきです。第一生命経済研究所の調査※3によると、日本では離職率こそ上昇していないものの、転職希望者数は年々加速度的に増加しており、働く環境の選択肢が増えたことで、仕事やキャリアについて再考する従業員が増えていることが伺えます。HCMは従業員のパフォーマンスと効率の最適化のためのプロセス全体の戦略に寄与するもので、最近では社内の従業員データ(スキル、プロジェクト内の貢献度など)を可視化し、どのように活用するか、最適な成長のための教育コンテンツは何かなどの提案まで行えるサービスが増加しています。しかしHCMにDEI&Bの考え方が反映されなかった場合、企業にとって最適な組織・人員配置が個々の従業員にとっては不幸になりえることもあります。今後挑戦したいキャリア志向や獲得したいスキルなど従業員の意思に配慮しない場合の組織最適化は、最終的には従業員の帰属意識を奪うことにつながります。結果的に自分の進みたいキャリアを選択できる企業への転職に伴って組織最適化の失敗すら招きかねないのです。すべての従業員の望む通りのキャリアを用意することはできませんが、企業と従業員それぞれのニーズをすり合わせることを前提としたHCMの運用が不可欠になると考えます。
しかし、DEI&Bに配慮した経営は、人事担当者や管理職の意識を変えるだけでは実現できません。HCMの項で述べたキャリア志向なども、上司にはなかなか言い出せない、言っても理解されないなど従業員が考えを共有するにはいまだ大きな障壁があります。さらに従業員にはそれぞれに認知バイアスや同調バイアスが働いており、例えば出身地や出身校が同じであることに親近感を覚える、先入観から客観的な評価・判断を行うことができなくなる、縦割り構造の組織体制のために他部署の優秀な人材ではなく自部署の人材を重用するといったことはどのような組織でもあることです。以上のように、DEI&Bを意識したとしても個人の理解の仕方の違いや潜在的な思い込み由来の意思決定により、客観的に配慮できている環境を作るのは困難なのです。
AIによる機械的で公平な人材評価がDEI&Bを体現する
前項の課題解決のためにAIをHR techに搭載するということは、今や一般的な手段になりました。ここで重要なのは、AIに学習させるデータはバイアスがかかっていないものを用意する必要があることです。ここで不適切なデータ群を用いた場合、データ選定担当者の持っていたバイアスを忠実に再現するAIが完成する恐れがあります。学歴情報や人種、出身地の情報などは特に慎重な取り扱いを求められ、多様性や公平性を実現することに多大な影響をもたらすことになります。さらに近年では自然言語処理技術の向上により、LinkedInやGitHubなどの公開情報、特に職務経歴書などを学習データとして、個々人の経歴から保有するスキルを推測、逆に特定の企業の特定の役職にはどのようなスキルを保持していることが必要かを可視化するサービスも実装されています。
HR tech各社は、中立なAIによって能力や経歴由来のスキル可視化を行い、求人に合致した人材を抽出することで、多様性、公平性に配慮したサービスの提供を実現しています。これらは海外HR techスタートアップがほぼ確実にホームページに記載している事項でもあり、彼らの大きなアピールポイントとなっています。
また、視点を変えてこれらのデータで社内人材の活用に寄与するサービスも増えてきています。個人のスキルを可視化して採用市場の人材との比較すなわち対外比較や、上席や同僚との対内比較を行うアプローチもあります。これらの比較データを利用し、「能力を活用できるポジションを従業員に提案する」、「長所/課題の客観的分析結果を本人と共有し成長機会を提供する」など、DEI&Bの実現を目指す試みも活発化しています。
現状は市場にこのようなサービスが乱立しており、HRtech企業はAIの精度やその利便性を競いながらサービスの差別化を図っています。
2022年を経てこのトレンドは維持するか
最新データである2022年2月までのHR techの調達額は14億ドル※4と、2021年ほどではないにしろHR techへの投資は引き続き堅調に推移すると考えられます。では、今後HR techのとりわけ本稿で挙げた類のサービスはどう変化するでしょうか。
アメリカのTop tierのVCであるa16zの記事※5によると、今後は業界を問わず汎用的に利用できるサービスより、業界・業種に特化したサービスが増えていくであろうことが示唆されています。また、AIに関して述べると、AIが学習すべき評価軸が限られていた方が、より人材評価の精度を高められると考えられます。これらのことから、前項でも述べた差別化は業界特化型サービスとして発現すると考えられます。
COVID-19の流行により始まったHR tech業界への資金流入は他業界への投資額減少と比較して今後も堅調とみられています。DEI&Bの概念など、今後変化する従業員の企業に対する重視項目と併せて、注視していきたいと思います。